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  • » 2025.08
物語の解釈。または『僕は自分を知らない』あとがき。
普段は好き勝手に書きたいもの書いてるんですが。
いや、それ自体はいつものことか……

まぁ、ときには自分の思想を反映させたものも書くわけで。
こういう考え方あるよね、みたいな。
そういうやつ。

それは昨日、創作ブログサイトに公開した掌編『僕は自分を知らない』も該当するものなのですが。

今年から、原爆、というものに関して調べ物をしています。
切羽詰まった感じじゃなくて、けっこうゆっくり、のろーっと書籍を読んだり映画を見たりしてる、という感じで。
学校の授業で「第二次世界大戦」って本当にちょっとしかやらなかった記憶。
縄文、弥生だのに時間かけるわりに、近代は全然やらないよね。
教え方が難しいものだし、試験にはほぼほぼ出ない箇所だから、避けられてる、って感じ。
今の教育統括の方々の思想の問題もあるのかな。

これも、唐突に思い立ったから勉強した、とかじゃなくて、noteで咲さん、という方に出逢えたから、知らないことを知る「きっかけ」をもらった、というところです。
その縁があったから折り本の表紙を描いていただけた経緯もありますし。

知らないでも生きていけることって沢山あるし、知っておいた方がいいこととと知らなければならないこと、って全然別のものだと思うし、知っていることにも知らないことにも善悪はないし。
知識自体に善悪はないけど、そこに人間が感情を乗せれば、他の誰かに対して善悪が生じるし。
その一方で「知る」こと自体には、遅いも早いもなくて、その行為自体に良いも悪いもない。

たとえば「麻薬」について調べる。
ひとりは「麻薬」が及ぼす影響に関して、その効果を中毒者を救うために調べる。
もうひとりは「麻薬」を使うために、効果と手に入れ方を調べる。
救うため、使うため、にはそこに個人の意図や感情が乗るから善悪が生じるけど、麻薬に関して「知る」というその行為自体には善悪はないと思うのです。

話を戻すか。

確かに自分を形づくる要素のひとつなのに、わたしはあまり「この国」のことを知らない。
今回の『僕は自分をしらない』はここから着想をしております。
……その割に話に重さが無いぞ。どこにいった歴史の重み。

考えてみれば「戦争」もそうだし、「国産みの神話」も、最近はあまり知られていない。
それどころか、今の世の中はネットによって情報も感情も溢れすぎていて、「自分」というものが曖昧になっている気がする。

たったひとりの誰かの怒りがネットによって加熱して共通感情になって炎上するのもそうだし(結局直接の被害者が埋もれていく)、洋服など外面的な部分も流行に流されて街を往く女性陣の似たような髪型と服装はクローンの量産を思わせる(ついでにいうと、どの服屋に入っても似たようなものばかりが置いてある気がする)。
はみ出し者を徹底的に叩き出す風潮は、現代は顕著だなぁ、と。
そうなると、人と似たようなことを言って、似たような振る舞いをして、世の中に紛れている方がよっぽど楽なんだよね。
考えることも、大多数が賛成することに「うんうん、そうだよね」って頷いていればいいし。
これが正しいとも思わないけど、はみ出したら袋叩きにされる世の中にこういう生き方が出てくるのは仕方ないことだとも思う。 

そうなった結果、「自分」というものは大分曖昧なものだなぁ、と思ったわけです。

じゃあ、自分ってなんだろう、ってなったときに、こういう世の中だからこそ「他者との比較」のなかで顕著に見えるものかなぁ、なんて考えたりしたわけで。
平均でいるのが一番楽な世の中で、どうしても譲れず他人との相似からはみ出すもの、それが「自分」かな、と。

「自分」を知るために「他人」を知らなきゃいけない。
そして、「知る」に遅いも早いも、良いも悪いもない。

たとえゆっくりでも、自分を取り巻く「他人」を「知る」ことは、「自分」を知ることにも繋がっていく。
上手く言えないけれどそんな気がして、ただ、その代わりに「知りたい」になるきっかけが大事な世の中になったのかもなぁ、なんてことも思いました。

無知に気付くにも「他人」が必要ですね。
知らないことは、それを知らないことにも気づかないことだから。

その結果、掌編『僕は自分を知らない』は究極的なまでに二人きりの世界になったし、自分のことはわからないまま、ただ一方的に相手を知っていくお話になりました。
それが自分を知ることになっていることには気づかないままで。

友人には「なんでオチだけあんな残酷なおはなしなの;」と突っ込まれましたが、まぁそんなこんながあったからなのでした。

ただ、そのうえで。
これはわたしの世界の解釈の仕方であって、あれを読んで「へんな話」とか「つまんない」とか「面白い」とか、そういう読者の感想が、その人にとって一番正しいものだと思うのです。
なので、このあとがきも、そういう解釈のうちのひとつ、とでも思っていただければこれ幸い。

おしまい。

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【2016/12/02 13:00 】 | 雑記 | 有り難いご意見(0)
「まみむめも」配信終了と次のこと
先日、五十音断篇折本「まみむめも」の配信が終了いたしました。
印刷いただいた皆様、本当にありがとうございました。

表紙が前回に続いて最強仕様だったこともあり、印刷数は11回(有里の印刷回数除く)でした。
いつも大体6,7回なので、やはり表紙がちゃんとすると印刷回数が伸びることがまたしても実証されました。

この数だけ人がいて、その人たちひとりひとりにあの掌編を見ていただけたのかなぁ、なんて思うとすごいことだよなぁ、と思っております。
私自身は大した実績もなく、発行した折本の中身もほとんど公開済のもので、地を這うモノ書きのはしくれなわけですが。
表紙にお金を出してくれたのかもしれないけど、それだけのひとが素人の作った折り本に手を伸ばしてくれたんだなぁ、と思うと感謝しかありません。本当にありがとうございます。

今回咲さまには表紙は「ま」のイメージで描いていただきました。
自分にとって小説とは魔法の書なのでそういう方向性の掌編だったのですが、ああいう表紙になると、より重厚感出てきて迫力あるな、完全に中身が表紙負けしてるな、と思いました(笑)
140字の制約上、あまり描写に字数を割けないので、もっと世界観描写したいなぁ、という思いと、とにかく起転結は入れなければ、という使命感のはざまで書いております。

起承転結、っていう観点でみると「み」はそれがうまくいった作品なので地味にお気に入りです。

 *****

次の折本は五十音断篇「やゆよ」となります。
今のところ、12月10日前後の配信を予定しております。

中身は「や(い)ゆ(え)よ」と「やゆよ」の6本となります。
次回は書き下ろし分が「い」「え」「やゆよ」の3つですね。まだ何も書いておりません。マズイですね。
表紙も久しぶりに自分で作りました。
いつも思っておりますが表紙は完全にネタが尽きております。しんどい。
一回ぐらい写真の表紙もやってみたいんですけど、自分の手持ちでは作品に合う写真がなくて詰んでおります。一回ぐらいやりたい、一回で良いから。
裏表紙もまだなことに昨日気が付きましたので考え中です。本当にマズイ。
なんとか頑張ります。
いつも無理って言いながらどうにかなってるから大丈夫。たぶん。

年内は「らりるれろ」まで配信をするつもりでいます。
こちらはクリスマス前後ですかね。有里からのクリスマスプレゼント兼落とし掌編です。
年末からお正月にかけての配信期間という、アホみたいな発行予定でございます。
あまりにも印刷数が伸びないようでしたら、年明けてから「わをん」と一緒に再配信でもします。

「わをん」は年明け1月10日前後の配信開始です。
同時に、来年から始める予定の「一色綴(いっしきつづり)」というシリーズの書き下ろし掌編折本も配信します。
こちらもどうぞお楽しみに。

……と、年末から年始にかけての予定はこんなところです。
なんとか予定通りにことを運ぶつもりでおります。
よろしければ今後ともお付き合いいただければ幸いです。

次もどうぞよろしくお願い致します。
それでは。

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【2016/11/28 15:40 】 | 雑記
【掌編】11/25(いい双子の日)
友人が兄を連れてきた。

 彼方(かなた)は目の前に立つ二つの顔をまじまじと見比べて、小学生らしからぬ感嘆の息を吐いてしまった。
 なるほど、並んで立たれるとなおさら際立つ。友人兄弟、彼らは双子だったのである。

 友人且つ弟の方――明日(あす)は、いつもは柔和な顔を固いしかめっ面に変えて、かたくなに隣を見ようとはしない。
 一方、今回はじめましての兄の方――月夜(つきよ)は、これでもかとばかりの笑顔でこちらに手を振ってきて、反対側の手はがっしりと弟の腕に回して、これまた弟の確保に余念がない。

 よく似た兄弟である。
 よく似ているが、同時に正反対の兄弟でもある。

 まじまじと見つめる視線に耐え兼ねたのか、明日は唇を尖らせてこういった。

「どうせきみも、ぼくたちが良く似ている、とでも言いたいんでしょう?」

 似てると思う。とは口が裂けても言えない。
 全力で首を横に振って、拗ねた様子の友人に一生懸命”言い訳”をした。

「そりゃ双子だから似てるとは思うけど、明日は明日だし、お兄さんはお兄さんだろ」

 これも限りなく本音ではあるが、正直「似てる」とひとこと言っただけで友人が怒り狂いそうだったので、ただ単にひよっただけである。

「ほら、言ったろ明日。明日の友達なんだからおれとお前を間違ったりなんかしない、って」
「だって、お父さんたまに間違うし……」
「だまそうとしてだましたら間違えるだろ。間違えられるのが嫌なら入れ替わりなんかしなけりゃいいんだって」
「うっ……」

 そりゃ父に罪はないだろ、と思ったが、言わない。

「うちの弟かわいいだろー。普段大人ぶってるくせに家のなかだとね、あんな……」
「だまれ」
「……ん、分かった。わかったからその顔やめて。こわい」
「わかればいいんです」
「そ、それはともかくとして。彼方くん、いい友達だね。よかったね明日」
「いいでしょう、これ僕の友達だからね。月夜にはあげないから」
「取らない取らない。うちの弟、これからもよろしくね」
「当たり前みたいにお兄ちゃん面するのやめてくれる?」
「……明日くんや、なんかお兄ちゃんに対して当たり強くない?」

 彼方はなすすべもなく目の前で起こる言い合いを眺めながら、この双子は本当に仲がいいのだなぁ、なんてことを思った。
 が、彼方は絶対にそれを口には出さなかった。
 これからも出すことはないだろう。そう確信して。

 *****

 時を経て高校。

 高校に入ってから知り合った友人、いつか――少々頭の回転が悪い――は、初めて月夜に会い、散々明日と見比べてから感慨深げに呟いた。

「すっげー、良く似てんなー……入れ替わりとか出来るの? 出来るの!? マジか、すげぇなぁ! お前、なんだっけ名前。月夜? 明日と月夜!? 正反対! すっげー! というか顔も良く似てるし入れ替わりとかしちゃうぐらいなんだからおまえら仲もいいんじゃ……」

 ここまで言っていつかが明日にフルスロットルで殴られたので――おそらく彼方が幼少期に気付けた地雷をすべて踏んだ――彼方はすべてを見なかったことにしたのであった。

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【2016/11/25 10:53 】 | 掌編 | 有り難いご意見(0)
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