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創作まったく関係ないはなし。
今まだペルソナ5の一周目を遊んでいるのですが、そうこうしているうちに13日にペルソナ20thフェスという、ペルソナシリーズ20周年を祝うイベントに参加してきます。 もう確実に終わらない日程になりました。 すまない、なんとなくキリのいいところまでは進めておくからな……(まだ11月を遊んでるけども) ペルソナ5はプレイ時間を70時間超えましたが、終わらないままFF15が出て、人喰いの大鷲トリコも出ました。 どっちもめっちゃ遊びたい…… PS4買ってしまったばっかりに遊びたいゲームが増える増える…… FF15、ツイッター見てると男4人旅で無駄に楽しそうでほんわかしますね。 リアルテイストに寄せて戦闘を足したどう〇つの森っぽいw トリコも延期に延期を重ねてようやくの発売なので、やっぱり気になるのでした。 その一方で。 なかなか据え置き機だと起動するまでが大変で、Vita用ゲームも欲しくなっちゃうんですよね~。 vitaなら「ちょっと1時間遊ぼう」ってやれるんですけど、PS4だと我が家の環境的にいちいち出してしまってをやらなきゃいけないので、1時間のために起動ができないというw しかも毎回しまわなきゃいけないので完全に電源切っちゃいますし、セーブまでしないと終われなくて。スリーブできる環境ならよかったんですけど。 そうなるとセーブ関係なしにパッとボタン押して終わってすぐ続きを再開できるvitaが最高で、vitaで遊ぶ用に乙女ゲーム買おうかなぁ、とかぼんやり考えております。ハイ。 乙女ゲームなら基本テキストゲームなので、アクション云々スピード云々ないから途中中断しやすいし。 ゴッドイーターとかの狩りゲーは流石に狩りの途中で投げ出すと、再開した時にまずいことになりますからねw 開幕戦闘不能、とかよくありますからね! え、ない? 今買おうか迷ってるのがvitaの『OZMAFIA!!-vivace-』と、同じくvitaの『月影の鎖 ~錯乱パラノイア~』なのだけども、両方割と極端に雰囲気が違う2作が気になってるので、どっちからやろうかな~、って感じで。 結局両方やるつもりではあるけれども。 乙女ゲームでも、攻略キャラ同士、ようするに男性キャラたちのしょうもないやりとりとか、友人関係とか「男どもは楽しそうだなw」みたいなところが結構好きなので、『OZMAFIA!!』はその辺が面白いと聞き、気になっております。 さといさんの絵も好きだ! おとぎ話モチーフなのも好き。 一方、どうせやるなら切なさMaxのストーリー重視で、その流れから生まれる恋愛ドラマを見たい、という嗜好なので、その点『月影の鎖』は重いらしくていいですね。最高かよ。 人間ドラマがあるやつすごい好きだよ。行動の裏にある過去とか大好きだよ。 ストーリーに整合性があればバッドエンドも大好物なので、こっちも遊びたいなぁ、気になるなぁ。 ***** 今年の乙女ゲームは『鏡界の白雪』しか遊んでないのですが、あれはよかった…… 一周目は「すごいいい話だったけどなんだコレ」ってなってたのが、周回するごとになんか泣けてくる真相が欠片で見えてきて「まさか……」って思ったところで真相ルートで答え合わせさせられる、という素敵ゲームでした。 恋愛過程もすごく丁寧で。いわゆるカウンセリングゲーなのに、下品なエロさはなく、比較的さわやかに、でも切ない、っていう。 攻略相手たちも、普通に接して表の顔だけ見てる分には本当に普通の人なのに、ある一点においてぶっ壊れていて、それは本人も自覚していて、でもどうすることもできないまま日常生活ではそれを隠して普通に生きている、という、誰にでもあり得る人間の弱さもあって、そういうところがよかったなぁ、と。 完全無欠「俺が愛して俺が救ってやる」系のキャラには愛着が持てないので、『鏡界の白雪』は弱いまま足掻いて、でも上がってはいけなくて、でもこのままではいたくないからと傷だらけになりながら足掻き続ける彼らの姿がすごく魅力的だなぁ、と思ったのでした。 あと、ストーリーもなのですが、絵も、音楽も、SEも、本当に丁寧に作られたゲームだったなぁ、と。 声優さんの演技もすごくて。文面だけ読むのと、声の演技聞くのとで全然ニュアンスが違うっていう。「ほっといてくれよ」という台詞が、文字だけなら突き放すものでも、声聞くと明らかに「いなくならないでくれ」という意味を孕んでいて、ボイス再生機能でじっくり聴き込んで遊んでしまった……「……」の無言台詞も声入ってるからね……すごいね…… エンディングの歌詞も絵も、世界観に徹底的にこだわっていて、隅から隅までおとぎ話感を崩さない演出に脱帽しました。 個人的には乙女向け、という点を抜いてもシナリオで100点のゲームだったので、遊んでよかったなぁ、と思えてよかったです。 昨年は『ポゼッション・マゼンタ』と『プリンス・オブ・ストライド』を遊んだのかな。あと『BAD APPLE WARS』か。 こちら3つは個人的に『ポゼマゼ』30点、『プリスト』100点、『BAW』90点って感じですかね! ポゼマゼに至ってはフルコンできてないぐらい遊ぶの苦痛で、コンプリートまであと何年かかるかわかんないですね! 残りの2作に関しては需要は見当たらないですけどそのうち愛を叫びたいですね。 大体乙女ゲーを一本遊ぶと必ず『ラブプラス』を遊びたくなるので、基本イケメンも美少女も大好きなんだろうなぁ、と思う今日この頃です。 そういうゲーム話でしたー。 おしまい。 PR |
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10日に五十音断篇折り本「やゆよ」が出ます。
多分。このままいけば。出るはず。 というとですね、要するに、風邪をひいて思うように作業時間が取れていない、というオチなのですがw 小説は残すところあと1本というところまで用意したので、あとは編集時間が取れれば発行できます。 間に合わせたい、この想い。 まだ7日でしょ? あと2日あるでしょ? いけるいける。 しかも、「やゆよ」よりも先に次の「らりるれろ」分の書き下ろし分が終わったので、作成順序がめちゃくちゃでより詰んでる感じがあります。 今までで一番詰んでいる「やゆよ」、配信開始しましたらいつもどおりこちらとTwitterにて告知します。 ***** 余談。 折り本にちょうどいいサイズのカード用クリアポケットをみつけたので、折り本が綺麗に保存できるようになりました。 郵送とかしても、傷つかないだろうな、っていう。 これ使って、今年折り本でお世話になった方に1冊しかない折り本をつくって送りたいな、とか企んでおります。 企んでるだけです。出来るかどうか、それこそ、神のみぞ知る、ってやつです。 ついでにもういっこ余談。 noteでなんやかんやあって絡まれた人と半年以上経って無事和解しました。 半年以上、嫌がらせメール送られ続けたせいか、なんかこれはこれで寂しい気もします。 多分最初から最後まで男と誤解されたまま、そのまま終わってしまったような気がします。 そういえば、元々のアカウント、もう見ない感じもするし、消してしまおうかなぁ。 更新されている有料マガジンを覗くときにしか見ないんだよね……どうしよう。 |
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普段は好き勝手に書きたいもの書いてるんですが。
いや、それ自体はいつものことか…… まぁ、ときには自分の思想を反映させたものも書くわけで。 こういう考え方あるよね、みたいな。 そういうやつ。 それは昨日、創作ブログサイトに公開した掌編『僕は自分を知らない』も該当するものなのですが。 今年から、原爆、というものに関して調べ物をしています。 切羽詰まった感じじゃなくて、けっこうゆっくり、のろーっと書籍を読んだり映画を見たりしてる、という感じで。 学校の授業で「第二次世界大戦」って本当にちょっとしかやらなかった記憶。 縄文、弥生だのに時間かけるわりに、近代は全然やらないよね。 教え方が難しいものだし、試験にはほぼほぼ出ない箇所だから、避けられてる、って感じ。 今の教育統括の方々の思想の問題もあるのかな。 これも、唐突に思い立ったから勉強した、とかじゃなくて、noteで咲さん、という方に出逢えたから、知らないことを知る「きっかけ」をもらった、というところです。 その縁があったから折り本の表紙を描いていただけた経緯もありますし。 知らないでも生きていけることって沢山あるし、知っておいた方がいいこととと知らなければならないこと、って全然別のものだと思うし、知っていることにも知らないことにも善悪はないし。 知識自体に善悪はないけど、そこに人間が感情を乗せれば、他の誰かに対して善悪が生じるし。 その一方で「知る」こと自体には、遅いも早いもなくて、その行為自体に良いも悪いもない。 たとえば「麻薬」について調べる。 ひとりは「麻薬」が及ぼす影響に関して、その効果を中毒者を救うために調べる。 もうひとりは「麻薬」を使うために、効果と手に入れ方を調べる。 救うため、使うため、にはそこに個人の意図や感情が乗るから善悪が生じるけど、麻薬に関して「知る」というその行為自体には善悪はないと思うのです。 話を戻すか。 確かに自分を形づくる要素のひとつなのに、わたしはあまり「この国」のことを知らない。 今回の『僕は自分をしらない』はここから着想をしております。 ……その割に話に重さが無いぞ。どこにいった歴史の重み。 考えてみれば「戦争」もそうだし、「国産みの神話」も、最近はあまり知られていない。 それどころか、今の世の中はネットによって情報も感情も溢れすぎていて、「自分」というものが曖昧になっている気がする。 たったひとりの誰かの怒りがネットによって加熱して共通感情になって炎上するのもそうだし(結局直接の被害者が埋もれていく)、洋服など外面的な部分も流行に流されて街を往く女性陣の似たような髪型と服装はクローンの量産を思わせる(ついでにいうと、どの服屋に入っても似たようなものばかりが置いてある気がする)。 はみ出し者を徹底的に叩き出す風潮は、現代は顕著だなぁ、と。 そうなると、人と似たようなことを言って、似たような振る舞いをして、世の中に紛れている方がよっぽど楽なんだよね。 考えることも、大多数が賛成することに「うんうん、そうだよね」って頷いていればいいし。 これが正しいとも思わないけど、はみ出したら袋叩きにされる世の中にこういう生き方が出てくるのは仕方ないことだとも思う。 そうなった結果、「自分」というものは大分曖昧なものだなぁ、と思ったわけです。 じゃあ、自分ってなんだろう、ってなったときに、こういう世の中だからこそ「他者との比較」のなかで顕著に見えるものかなぁ、なんて考えたりしたわけで。 平均でいるのが一番楽な世の中で、どうしても譲れず他人との相似からはみ出すもの、それが「自分」かな、と。 「自分」を知るために「他人」を知らなきゃいけない。 そして、「知る」に遅いも早いも、良いも悪いもない。 たとえゆっくりでも、自分を取り巻く「他人」を「知る」ことは、「自分」を知ることにも繋がっていく。 上手く言えないけれどそんな気がして、ただ、その代わりに「知りたい」になるきっかけが大事な世の中になったのかもなぁ、なんてことも思いました。 無知に気付くにも「他人」が必要ですね。 知らないことは、それを知らないことにも気づかないことだから。 その結果、掌編『僕は自分を知らない』は究極的なまでに二人きりの世界になったし、自分のことはわからないまま、ただ一方的に相手を知っていくお話になりました。 それが自分を知ることになっていることには気づかないままで。 友人には「なんでオチだけあんな残酷なおはなしなの;」と突っ込まれましたが、まぁそんなこんながあったからなのでした。 ただ、そのうえで。 これはわたしの世界の解釈の仕方であって、あれを読んで「へんな話」とか「つまんない」とか「面白い」とか、そういう読者の感想が、その人にとって一番正しいものだと思うのです。 なので、このあとがきも、そういう解釈のうちのひとつ、とでも思っていただければこれ幸い。 おしまい。 |
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