気が付いたら色の洪水のなかにいた。
おかしい。 さきほどまで、確かに海の中にいたのに。 友人と来た海水浴、浜に立つパラソルの群れ、目が覚めるほどの青い海、そして、空。 永遠に続きそうなほど、楽しい時間。 さっきまで手に取れるほど目の前にあった、幸福。 それがなぜか無くなっていた。 代わりに、身を焦がすほどの赤と、凍えるほどの白と、泣きたくなる黒と、悲しくなる青、緊張を強いる黄と、安心をもたらす緑が、私の眼前に海のように広がって、ひしめき合っている。 例えるなら、絵の具を使った後の筆を雑多に筆洗いのバケツに突っ込んだような、まだら。 逃げ出そうと思ってもソレは私の腰までを浸して離さない。生ぬるい水の感触が、肌を絡み付くように捕えている。 浸かっていた腕を持ち上げてみると、ぬるりと赤と青と黄の水玉が肌を伝って流れ落ちていった。 なんだろう、これは。 どんなに首を捻っても心当たりがない。 当たり前か。さっきまで海にいた筈なんだから。 「おーい」 声を出す。 何処にも反響せず、消える。 薄々予想はしていたけれど、どうやらこの場所に果てはないらしい。 そんな場所が本当にあるのかどうか、知らないけれど。 上を見る。 どこまでも真っ白で、すぐそこに天井があるようにも、果てがないようにも見える。 「おーい」 やはり、答えはない。 一歩進む。 ざぷりざぷり、と波音が立つ。 赤い水に浸かると、怒りに満ちた声が聞こえてきた。 「貴様は何色を選ぶ?」 「……え?」 「貴様は何色を選ぶ?」 声が怖くて、隣り合った白に逃げ込む。 凍えた震え声が、聞こえる。 「あなたは何色を選ぶの?」 黒へ、逃げる。 泣き声が聞こえる。 「何色を……選ぶの?」 黄色へ。 警戒に満ちた声が固く聞こえる。 「なぜ何も選ばない?」 緑へ逃げ込む。 優しい声が、聞こえる。 「あなたは選んでくれるの?」 すがるようなその声が怖くて、やっぱり逃げる。 逃げた先にあるのは、青。 「青を選んでくれるの?」 少し悲しげな声は、それでも嬉しそうにそう言った。 ……別に、選んだわけではない。 たまたま最後に入った水が青かったというだけだ。 ただ、脳裏にさっきまでいた海がよぎらなかったわけでもないけれど。 青い声はかすかに笑って、 「じゃあ、今は、見逃してあげるよ」 と、沈んでいった。 青い水は視界から消え、周りの色がその分支配域を広げる。 あとには、身を焦がすほどの赤と、凍えるほどの白と、泣きたくなる黒と、緊張を強いる黄と、安心をもたらす緑が残った。 からだを浸す水は、赤でもあり、白でもあり、黒でもあり、黄でもあり、緑でもある、なんだか禍々しい色彩。 青だけが抜けた、鮮烈な色。 「青を選んだのか」 「何故青なの?」 「どうして青いの?」 「青か」 「そっか……青なんだね」 口々にそれらは青への恨みつらみを語る。 うらめしい、かなしい、うらやましい。 その雑音は、やがて、頭上へと上がっていく。 色彩の水は壁を形作った。 高波のような、壁を。 それは大きな影をつくって、私へと手を伸ばす。 「ゆるさない」 色の洪水は、ざぷん、と私を頭から飲み込んだ。 目を閉じる。 ああ、これで不思議な夢も終わりなのか。 そう思うと、不思議とあの色彩の世界を名残惜しく思えた。 ぱちり、と目を開ける。 遠く聞こえる歓声。 肌を焼く日の光。 はじける飛沫。 青い青い、果てのない海。 そして、悲鳴交じりの友人たちの呼び声。 『じゃあ、今は、見逃してあげるよ』 笑ってそう言った青の声。 それは、つまり。 ――二度目は、逃さない。 微睡のあとには、覚めるほど悲しい青い壁が目の前に迫っていた。 ――了 PR |
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