その場所では、天使と出会えるんだってーー
そんな嘘に決まっているような噂を信じたわけじゃない。伝え聞く七不思議を信じるほど子供じゃない。そう言い訳しながらも、わたしはその場所に向かう。 冬服の長いスカートは重たくて、屋上へ向かう足をからめ捕る。それでも抗うように前に進む。 眼鏡がずり落ちてきて、髪の毛もぼさぼさで、女子高生、って聞いて誰もが思い浮かべるような子たちとは正反対なわたしでも、この言葉だけはやっぱり捨てられない。 ――運命、ってものを信じてみたい。 階段の最奥、校舎の一番上。長く開きっぱなしで無用の長物と化した鎖と南京錠。それを外してしまえば、運命への扉は開かれる。 はず、だった。 ……無人の屋上。吹きっ晒しのコンクリートにちらばる枯葉。 これ以上の説明は不要だ。楽園など、この世のどこにもない。少なくとも、学校にはない。 「オーケー、帰ろう」 この世は無常だった。わたしが思うより、遥かに。 がっくりと肩を落としてせっせと駆け上がってきた階段に向き合う。くらり、と眩暈がした。さっきまであんなに弾んでいた胸のうちは、重りを載せたかのようにずっしりと重い。 くっ、と涙を飲んで一歩踏み出す。 「ねぇ、帰っちゃうの?」 聞こえた声に、はた、と立ち止まる。 くるりと振り向けば、誰もいない屋上。でも、声だけが聞こえる。 そっと問う。 「……だぁれ?」 「さぁ、誰だろう? 噂の天使、かもよ?」 くすくす、とその声は笑って、柔らかな声で続けた。 「すこし、ひまなんだ。付き合って行ってよ」 その声が甘えるような響きを持っていて、つい、こくりと頷いてしまう。 声が「本当?」とどこから見ているのか嬉しそうにした。 ひとまず屋上に「失礼します」と上がりこんで、こてん、と入口の日向に座り込む。 寒い冬の日ではあったけれど陽射しは暖かかった。長いスカートごと膝裏を抱きかかえるように体育座り。それを見ていたのか、声は言う。 「今どき珍しいね」 「……なにが?」 「ううん、校則通りの制服だなぁ、って」 ふふふ、と笑う声にからかう響きはない。それが嬉しくてついつい話してしまう。 「そうなの。良く笑われたりからかわれたりするんだけど……やっぱり決まりはちゃんと守らないといけないし、それに……」 はっと口を押える。まずいまずい。言ってはいけないことをつい口走りそうになってしまった。 でも、声はそれを聞き逃さなかったらしい。 「それに……なに?」 「な、なんでもないの!」 「えー? 気になるなぁ。笑わないから聞かせてよ」 「うう……」 「ねぇ、聞かせて?」 甘えるような声。優しくて甘くて、女の子のようで、男の子のようで、ほんの少しいじわるな響きを持つ、声。 くらくらする。 「そ、それにほら。こういう純朴な感じ? が、逆に薄明の美少年とか、本好きな眼鏡男子、だけど眼鏡外すと綺麗な顔、とか、そういうのを引き寄せるっていうか? ……あ」 ……つい、言ってしまった。 「あぁ、少女マンガとかでよくあるね。へぇ、そういうの好きなの?」 にこにこと聞かれるとついついしゃべっちゃうのが女のサガというものでして。声に誘われるがまま、勢いよくあふれ出る。妄想が。 「うん! 運命、っていうとよく笑われちゃうんだけど、そういうの好きなの。ほら、学校一の落ちこぼれが天才生徒会長サマと恋に落ちたり、とか。天才の幼馴染と友人以上恋人未満的なやつとか! あと、図書館で本を借りると貸出カードに毎回同じ名前があって運命感じちゃったりとか!」 勢いのまま叫んで、はっと気づくがもうすでに遅く。優しい天使の声もさすがに呆れるんじゃないかとドキドキするけれど、かの声ははしゃいだ声で、 「おおお、夢膨らむね。どれか叶いそう?」 と、わたしに聞いてくるのであった。本当に天使だった。 「……貸出カードに同じ名前はあったよ」 「おお! いいじゃんいいじゃん。それはどんなかんじ?」 「愛子ちゃん、って子」 「……女の子だね」 「うん、気の合う友達にはなれそうなの。友達には」 「……ごめんね」 「ううん、大丈夫」 別に泣いてなんかいない。そう、断じて泣いてなどいない。 「……他には?」 「幼馴染はいないし、当校のキングオブイケメン、生徒会長サマはお知り合いでもありません」 「現実は厳しいね」 がっくりと肩を落とすわたしに「よしよし」と声で撫でてくれる天使くん。実に癒しである。 でも、でも、だ。確かに私にはイケメン幼馴染もいないし、憧れの生徒会長サマにお近づきにもなれないスクールカースト最底辺だ。運命を信じるちょっと夢見がちなところもある、そんな冴えない女の子だ。 それでも。 「この出会いも運命かもしれないし!」 そうなのだ。噂を聞いて、運命を信じて、ここまできた。そして、実際に出会えた。 運命に出逢えたのだ、わたしは。 「ん、それって、僕のこと?」 「うん! だって、噂通りここにきて、そしたら天使くんに逢えたし!」 「……天使くん、って僕のこと?」 きょとん、とした声で問い返す声に全力で頷く。首がゴキッといやな音を立てたのは気のせいだと思いたい。 「わたしね、ここであなたと逢えて嬉しかった。運命だって思った。天使は本当にいたんだって……そう思ったよ」 くすり、と笑う声。しかし、微笑みを浮かべた穏やかな声がほんの少し、陰る。 「本当? 僕が……天使とは言えないような、不細工でも?」 わずかばかり震える声に、わたしは応える。出来る限り、微笑んで。顔も見えない、知らない、しかし優しい彼のために、笑って見せる。 「うん、いいよ。だって、天使くんは優しい人だもん……きみさえよければ、友達になりたい。だめ、かな?」 声だけの天使くん。 彼のことをまだ、何も知らない。何も知らないから知りたいと思うけれど、彼はどうだろうか。どこからかすべてを見ている彼は。 こんな女のことは興味もないんじゃないだろうか。それだけは少し、不安だった。 けれど、それは杞憂だったようだ。 「……本当に、きみは物好きだね」 ふっ、と吐息をこぼして、とん、とその人は上から降りてきた。 天使のように軽やかに。わたしの後ろ、屋上入口の、学校の一番高いところから。太陽の光を背負って降りてくる。 ――「はぁー……暇つぶしとはいえ、ひっさしぶりにアホな話聞いたわ。天使? ないない、いないから、そんなの。現実なんてこんなもんだからさ。僕、とか言う男子高生は絶滅危惧種でしょ。夢見る乙女さん的には残念だったね?」 ざっくばらんな口調。声は確かに天使なのに、甘く毒を含んだ怖気が走るほど嫌味ったらしい男の口調。 思わず唖然とする。立ち上がって、目の前に降り立った影を見る。 奇しくも入口をふさぐようなかたちで、”彼”と対面する。逆光で見づらいけれど、見間違えるはずもない。 ……妄想のなかで、何度も出会っているから。 「ちょっと。そこにいられると”おれ”の邪魔なんだけど」 そこにいたのは確かに天使のような美貌をもつ、わたしを心底馬鹿にしたような表情をした、この学校のイケメン生徒会長サマだったのであった。 ーー了 PR |
気が付いたら色の洪水のなかにいた。
おかしい。 さきほどまで、確かに海の中にいたのに。 友人と来た海水浴、浜に立つパラソルの群れ、目が覚めるほどの青い海、そして、空。 永遠に続きそうなほど、楽しい時間。 さっきまで手に取れるほど目の前にあった、幸福。 それがなぜか無くなっていた。 代わりに、身を焦がすほどの赤と、凍えるほどの白と、泣きたくなる黒と、悲しくなる青、緊張を強いる黄と、安心をもたらす緑が、私の眼前に海のように広がって、ひしめき合っている。 例えるなら、絵の具を使った後の筆を雑多に筆洗いのバケツに突っ込んだような、まだら。 逃げ出そうと思ってもソレは私の腰までを浸して離さない。生ぬるい水の感触が、肌を絡み付くように捕えている。 浸かっていた腕を持ち上げてみると、ぬるりと赤と青と黄の水玉が肌を伝って流れ落ちていった。 なんだろう、これは。 どんなに首を捻っても心当たりがない。 当たり前か。さっきまで海にいた筈なんだから。 「おーい」 声を出す。 何処にも反響せず、消える。 薄々予想はしていたけれど、どうやらこの場所に果てはないらしい。 そんな場所が本当にあるのかどうか、知らないけれど。 上を見る。 どこまでも真っ白で、すぐそこに天井があるようにも、果てがないようにも見える。 「おーい」 やはり、答えはない。 一歩進む。 ざぷりざぷり、と波音が立つ。 赤い水に浸かると、怒りに満ちた声が聞こえてきた。 「貴様は何色を選ぶ?」 「……え?」 「貴様は何色を選ぶ?」 声が怖くて、隣り合った白に逃げ込む。 凍えた震え声が、聞こえる。 「あなたは何色を選ぶの?」 黒へ、逃げる。 泣き声が聞こえる。 「何色を……選ぶの?」 黄色へ。 警戒に満ちた声が固く聞こえる。 「なぜ何も選ばない?」 緑へ逃げ込む。 優しい声が、聞こえる。 「あなたは選んでくれるの?」 すがるようなその声が怖くて、やっぱり逃げる。 逃げた先にあるのは、青。 「青を選んでくれるの?」 少し悲しげな声は、それでも嬉しそうにそう言った。 ……別に、選んだわけではない。 たまたま最後に入った水が青かったというだけだ。 ただ、脳裏にさっきまでいた海がよぎらなかったわけでもないけれど。 青い声はかすかに笑って、 「じゃあ、今は、見逃してあげるよ」 と、沈んでいった。 青い水は視界から消え、周りの色がその分支配域を広げる。 あとには、身を焦がすほどの赤と、凍えるほどの白と、泣きたくなる黒と、緊張を強いる黄と、安心をもたらす緑が残った。 からだを浸す水は、赤でもあり、白でもあり、黒でもあり、黄でもあり、緑でもある、なんだか禍々しい色彩。 青だけが抜けた、鮮烈な色。 「青を選んだのか」 「何故青なの?」 「どうして青いの?」 「青か」 「そっか……青なんだね」 口々にそれらは青への恨みつらみを語る。 うらめしい、かなしい、うらやましい。 その雑音は、やがて、頭上へと上がっていく。 色彩の水は壁を形作った。 高波のような、壁を。 それは大きな影をつくって、私へと手を伸ばす。 「ゆるさない」 色の洪水は、ざぷん、と私を頭から飲み込んだ。 目を閉じる。 ああ、これで不思議な夢も終わりなのか。 そう思うと、不思議とあの色彩の世界を名残惜しく思えた。 ぱちり、と目を開ける。 遠く聞こえる歓声。 肌を焼く日の光。 はじける飛沫。 青い青い、果てのない海。 そして、悲鳴交じりの友人たちの呼び声。 『じゃあ、今は、見逃してあげるよ』 笑ってそう言った青の声。 それは、つまり。 ――二度目は、逃さない。 微睡のあとには、覚めるほど悲しい青い壁が目の前に迫っていた。 ――了 |
音が鳴る。
今日も僕はそれを木陰から覗き見る。 中庭では、ダンスサークルがくるくると楽しそうに日差しを浴びている。 ホップ、ステップ、ジャンプ。 皆一様に、一揃いに、舞う。 音が、鳴る。 僕が普段聴かないような、電子音鳴るダンスソング。 興味ないような振りをして、どこにも繋がっていないイヤホンを耳に差す。 端子の先はポケットのなか。ミュージックプレイヤーは鞄のなか。 楽しく鳴る音を盗み聞いて、弁当をつまんで横目に彼女を探す。 日差しの真ん中で踊る、彼女の姿を。 真っ白な細い腕と細い首。 しなる背中に軽やかに空を舞う足先。 僕はいつも日陰からそれを見ている。 木の陰に隠れて、暑い日差しを受ける彼女を見つめる。 冷たく、黙って、音のない世界を装いながら盗み見るのだ。 やがてサークルの練習も終わって彼女はいつも通りタオルを肩にかけて…… ん? いつもならまっすぐ部室棟に向かうのだが、今日は校舎に用があるのかいつもとは別方向に歩いてくる。 僕がいる、木陰の方へ、まっすぐと。この先にある、校舎口目指して。 とはいえ、まぁ、僕のことなんか知りもしないだろうし、ただ、何事もなく通り過ぎるだけだろう。 と、弁当に向き直る。 でも、なんだか味がしない。 早く彼女が過ぎることを祈りながら、僕はただ、うつむいて米を口に運ぶ。 と、ぼと、と目の前に白いものが舞い落ちる。 「あ、ごめんね」 明るい声。 ぱっと顔を上げれば、彼女の姿。 いつも首に巻いているタオルがない。 そうか、と目の前のそれを拾い上げて、 「はい」 と、渡す。 暗いところでうつむいていた僕には、逆光で彼女の顔も見れない。 眩しく目を眇める僕の手からタオルが抜ける。 受け取った彼女が笑った吐息が聞こえる。 ふと、彼女が身を屈めた。 日差しが遮られて、僕は初めて彼女の顔を見る。 まっすぐ僕の目を見て、名前も知らない彼女が言う。 「音成(おとなり)くん、いつも見ててくれてアリガト」 そう囁いて、離れていく。 頬が熱かった。 でも、気づかないふり。 全部、日差しのせい。 日差しの真ん中で踊る、彼女のせい……―― 今日も、音が、鳴る。 僕はイヤホンを外して、日差しの中を歩き始める。 ――了 |
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